ロシア兵墓地 2011
2011年 12月 21日
今日は、小説の主役、秋山好古・真之兄弟と正岡子規の故郷松山と
日露戦争の関わりを物語るロシア兵墓地へお参りに行ってきました。
(現在は「ロシア兵墓地」と表記してあります)
ロシア兵墓地は、
51番石手寺から道後温泉を経て52番太山寺に至る遍路道の途中、
松山大学キャンパスから歩いて約300mの御幸山中腹にあります。
「現在地」表示の右下が墓地になります(画像は2010年3月5日のお遍路のとき撮影)
(現在は「ロシア兵墓地」と表記してあります)
松山大学の好意で設けられた駐車場から少し下り、道沿いの短い石段を登ると
ロシア兵墓地です。
墓地は陸軍によって妙見山の山頂につくられ、昭和35年にこの地へ移されたました。
ロシア兵の多くは戦争終結後、帰国しましたが、
帰国を夢見ながら、収容中に病気などで亡くなった98名を悼み、松山で手厚く葬られました。
日露戦争(明治37年2月~38年9月)で、
捕虜となったロシア将兵7万人は日本の各都市に収容されました。
その中でも松山は最も多い4000人の捕虜を受け入れ、
愛媛県は、当時の戦時国際法のルールに則り、
「捕虜は罪人ではない。
祖国のために奮闘して敗れた心情を汲み取って侮辱を与えるような行為は厳に慎め」
という訓告を発していたという記録があります。
松山市民のロシア兵捕虜に対する「おもてなし」は、とりわけ手厚く、
市内への出入りはもちろん、海水浴や道後温泉への入浴など
比較的自由な生活が許されていたと云うことです。
戦時、ロシア兵がその評判を聞き、
戦地で日本兵に捕まったとき
「マツヤマ、マツヤマ(へ連れて行ってくれ)」と叫びながら
投降したと云う逸話も残っています。
墓地は、100年を経た現在も
地元勝山中学校の生徒や保存会の人々の手により定期的に清掃が続けられ、
時節柄の落ち葉数枚以外にゴミ一つ落ちていませんでした。
一人一人の墓標は、はるか北方の祖国ロシアを向いて建てられています。
石碑には「露軍砲兵卒〇〇の墓」と日本語で彫られ、
前左の黒石板には、名前と死亡年月日がロシア語と日本語で書かれ、
前右のプレートには、ロシア語で階級と名前と亡くなった日が彫ってあり、
花挿しの供花は絶えることが無いそうです。
その98柱の石碑の中に、とりわけ大きなボイスマン大佐の墓標と胸像があります。
彼は旅順艦隊の戦艦ペレスベートの艦長で、
海戦で負傷し捕虜になりました。
日本側は、大佐という階級と
負傷兵であることを考慮して、
ロシアに送還しようと策しましたが
「兵卒と共にありたい」と拒み、
「それなら妻子を呼び寄せよ」、
と勧めましたがこれも辞退し、
収容されて八ヵ月後、
胃がんで他界しました。
享年50歳。
写真の大佐の胸像はロシアで作られましたが、
当時ロシアは不況下で日本へ送る資金が無く、
その輸送資金を松山市民や学生が募金で賄い、
「日露友好のかけ橋」として寄贈を受けて、
1994年ここに建立されたということです。
決して美談に祀り上げようとは思いませんが、
日本側の母国への送還策を「兵卒と共にありたい」と拒んだ大佐の気概と、
「ならば妻子を呼び寄せよ」と応えた松山人の優しさが、
100年の歴史に彩りを添えて、胸像は母国の方向を見つめて凛と立っていました。
明治の人々の“武士道”と松山人の“お接待の心”を誇りに思いながら,
ここで亡くなった人や、その人々のために尽くした人々に思いを馳せるとき、
やっぱり平和がいいなあ~、と、平和ボケに浸った門前の小僧でした。 合掌・・・
帰り道、シベリア抑留のことが一瞬頭をよぎり、
明治と昭和という時代の違いなのか?とも思いましたが、
「プーチンさん、一度松山へおいでなもし、
ニッポンそんなに悪者ばかりじゃないですよ」と
車の中で独り言をつぶやいてピリオドを打ちました。
このページは、
墓地内の碑文を読み、メモを取り、この墓地に関する資料を読み漁り編集しました。
差し障りがありましたら、ご注意、お叱りを願い致します、書き換えますから・・・
(追記)
広報 まつやま 平成25年1月15日号によると、
呼称「ロシア人墓地」は、日露戦争で捕虜となり、亡くなったロシア兵が埋葬された墓地で、
当時、ロシア兵は全てロシア人だと思われていたため、これまでそう呼ばれてきました。
しかし、日本・ポーランド共同研究チームの調査により、
埋葬されている98人のうち12人がポーランド人であることが確認されたため、
呼称を「ロシア兵墓地」に変更します。
との広報があり、当ブログも記事内の該当呼称を「ロシア兵墓地」と修正いたします。
平成25年1月10日 -編集子-
by jh5swz
| 2011-12-21 22:48
| ロシア兵墓地と山頭火の一草庵
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