ふる里 双岩村巡り
2016年 06月 28日
(日)の日記。
この夫婦岩こそ双岩村の村名起源地であり、
傍に出雲神社を分祀した小さなお社が祀ってありますが、
ここしばらく参拝したことがないので・・・
再興祈願祭に招かれて神妙にお参りして帰りました。
FB知り合いのお先達さんの影響で、
近ごろちょっと「撮り鉄もどき」の小僧、
わざわざ時刻表を調べて「夫婦岩」へ到着。
09:26 カメラマンの腕前とカメラの性能に同情した列車が
それはまことにゆっくりと目の前を走ってくれました。
駐車場から「夫婦岩公園」へ。
かって、この公園は「実年会」と称する皆さんが
春夏秋冬、イベントを企画されて
村内外のくつろぎの公園でしたが、
現在、休会中らしく・・・
本日の「出雲神社再興祈願祭」は
「なんとかせねば!」と、
村の若い衆が「ふたいわ盛り上げ隊」を
立ち上げた聞き及びます。
公園内を縦断するJR予讃線・伝説の「4連橋梁」。
(交差するガードレールは県道宇和・八幡浜線)
2016年6月26日 ふる里・双岩村(ふたいわむら)に住む
「ふたいわ盛り上げ隊」の若い皆さんから、
村のシンボル「夫婦岩(みょうといわ)」に分祀してある
「出雲神社」再興祈願祭へのお招きがありました。
「ふたいわ盛り上げ隊」の若い皆さんから、
村のシンボル「夫婦岩(みょうといわ)」に分祀してある
「出雲神社」再興祈願祭へのお招きがありました。
理由がふるっていました、
「信ちゃんは他所に住んどるけんど、よう戻ってくれるけん」と!
なんとも
若衆一同の素朴なお招きの言葉がとても嬉しゅうございました。
「信ちゃんは他所に住んどるけんど、よう戻ってくれるけん」と!
なんとも
若衆一同の素朴なお招きの言葉がとても嬉しゅうございました。
この夫婦岩こそ双岩村の村名起源地であり、
傍に出雲神社を分祀した小さなお社が祀ってありますが、
ここしばらく参拝したことがないので・・・
再興祈願祭に招かれて神妙にお参りして帰りました。
FB知り合いのお先達さんの影響で、
近ごろちょっと「撮り鉄もどき」の小僧、
わざわざ時刻表を調べて「夫婦岩」へ到着。
09:26 カメラマンの腕前とカメラの性能に同情した列車が
それはまことにゆっくりと目の前を走ってくれました。
みきゃんと Welcome NanYo! のラッピングがとても冴えていました!
ばい煙にむせながらデッキで勉強に耽った?汽車通学生時代もありました。
(通勤・通学時間帯の3両編成列車はギュウギュウのすし詰めでした)
昭和XY年冬、夫婦岩の五連鉄橋を駆け登るSL(中井 徹氏撮影)無断転用ご遠慮願います
駐車場から「夫婦岩公園」へ。
かって、この公園は「実年会」と称する皆さんが
春夏秋冬、イベントを企画されて
村内外のくつろぎの公園でしたが、
現在、休会中らしく・・・
「なんとかせねば!」と、
村の若い衆が「ふたいわ盛り上げ隊」を
立ち上げた聞き及びます。
公園内を縦断するJR予讃線・伝説の「4連橋梁」。
(交差するガードレールは県道宇和・八幡浜線)
下からよく見ると、増水して激流に浸かる部分は円形、線路を支える上部は四角、
太平洋戦争末期の建造橋であるが、強度と美観を併せ持ってお洒落!
正式には「第二夫婦岩橋梁」といい、
昭和20年、連合軍の土佐湾上陸に備えた軍用物資輸送のため
当時複線だった伊予鉄高浜線の線路を剥ぎ取って、
ここへ敷いた「戦争遺跡」でもある・・・と、何かで読んだ。
ここは予讃線で最も勾配がきつい難工事区間で、
愛媛県下の国鉄で最後に線路が敷かれたのがココらしい、
そして、軍隊まで動員して全線開通した2ヵ月後、終戦・・・
私は、昭和20年6月20日、その全線開通式典の日、
通院していた耳鼻科の先生が「忙しくて開通式典へ出席できない」からと、
ご夫妻の式典招待券と乗車切符に加えて「ハイヤー」まで呼んでもらって
八幡浜発卯之町行きの
「開通一番列車にエライ人達に混じって親子で双岩駅まで乗った」らしい、
双岩駅では村長さんはじめ役場の偉い人々の出迎えを受けてたまげた」と、
おふくろにいつも聞かされた。
(ご幼少のお坊ちゃまは何も覚えてないのが真に残念・・・)
公園の滝と看板
夫婦連れの龍が住むとか、カッパにだまされたとか、
ご幼少のみぎり、信じて育った懐かしい昔話 ^0^
公園内のつづら道をパワースポットへ吸い込まれるように登って
登り詰めたあまり広くもない境内にポツンとお社。
今日の再興祭のために若い衆が参道から境内まできれいに草刈りをして貰っていました。
私自身、参拝は何十年ぶりのことだろう・・・
神殿はやや傾き、
お社を囲む塀は朽ちて・・・
「帰って参りました、ご無沙汰ですみません」と参拝。
ご神職に教わりました、
出雲神社の参拝は『二拝四拍一拝』なのだそうです。
境内からみた「夫婦岩」。
昔は「肝試し」と称して、覆われたカズラを頼りに大岩に登らされた記憶があります・・・
怖気づくと「おまえ 〇玉有るがか!」と、上級生から叱咤激励?を受けて・・・
今に思うと、あれは半分パワハラだったかも知れません(笑)
左側の石像に、
ウロキョロしていたら神事が始まりました。
祝詞(お迎えして40有余年という祝詞が聞こえました)
玉串奉奠の筆頭は、この復興祭を計画実行した若者代表!
続いて長老、実年皆さんの玉串奉奠。
私からの願いごとは、
もし、この中に独身の若者が居りましたら、出雲の神様の御利益を。
夫婦岩出雲神社・再興祈願祭 参会者記念写真
神事のあと、一つ年下のバスケ部員だった市議と相談事あり、公園内の東屋で歓談。
夕方6時からの直会のお誘いも頂いたが
お神酒で飲酒運転は罰当たりもいいとこなので辞退して次のミッションへ。
夫婦岩公園から1,5キロほど山奥へ入った「中津川」へ足を伸ばしました。
11:40 坂本屋メンバーの一人、U建築研究所オーナーに教えてもらったのですが、
神社の手前に
高名な建築家・松村正恒氏の手がけた<中津川公民館>があります。
側道からも入館できる設計になっています。
地元の朋輩が、「是非見て帰れ」と言った公民館前の護岸ブロックの
門外漢で専門的なことは判りませんが、
流れる小川や土手までも建造物の一部として採り入れる松村氏の設計は
重要文化財に指定された市内日土小学校にも共通する「遊び心」かも・・・
その「遊び心」こそ、オトコの活力源だと信じてやまない小僧です。
さて、ここまで来ると、小学生の頃、モミジの季節、
自分の集落から山を越えてチョイチョイ遊びに来たことのある神社が懐かしくて
さらに集落の奥へアクセルを踏みました。
12:10 秋になると紅葉がきれいだった神社は、相当古くなって・・・と想像していたが、
なんと近年改築された様子で、ちょっと拍子抜け・・・だったが、
◇神社由縁の看板
現存する社殿造営の歴史を示す棟札について
応永35年(1428)若山・大元神社より分身
宝徳 3年(1451)~延宝 6年(1678) 4枚
文化 4年(1807)~昭和16年(1941) 8枚
八幡浜市に残る神社の棟札としては最古のもので
「村」の形成を示す貴重なものである。
と、書いてあります。
◇社殿に掲示してある由緒沿革
実は私の姓は「田中」でございまして、
子供ごころにココへ遊びに来ると
「ウチのお宮じゃ~」と自慢した記憶がありますが、
田中山大元神社の田中が読めたセイかもしれませぬ。
一瞬思い出したのは、四国霊場第9番法輪寺さんが、
田んぼの中にあるから田中の法輪寺と呼ばれること。
ガキ大将ながら、この朱塗りの橋を見て「かっこええ!」と思ったことです。
セミ取りにくたびれて、大木の陰で昼寝したのはこの木だったかも知れん・・・
太平洋戦争末期の建造橋であるが、強度と美観を併せ持ってお洒落!
正式には「第二夫婦岩橋梁」といい、
昭和20年、連合軍の土佐湾上陸に備えた軍用物資輸送のため
当時複線だった伊予鉄高浜線の線路を剥ぎ取って、
ここへ敷いた「戦争遺跡」でもある・・・と、何かで読んだ。
ここは予讃線で最も勾配がきつい難工事区間で、
愛媛県下の国鉄で最後に線路が敷かれたのがココらしい、
そして、軍隊まで動員して全線開通した2ヵ月後、終戦・・・
私は、昭和20年6月20日、その全線開通式典の日、
通院していた耳鼻科の先生が「忙しくて開通式典へ出席できない」からと、
ご夫妻の式典招待券と乗車切符に加えて「ハイヤー」まで呼んでもらって
八幡浜発卯之町行きの
「開通一番列車にエライ人達に混じって親子で双岩駅まで乗った」らしい、
双岩駅では村長さんはじめ役場の偉い人々の出迎えを受けてたまげた」と、
おふくろにいつも聞かされた。
(ご幼少のお坊ちゃまは何も覚えてないのが真に残念・・・)
公園の滝と看板
ご幼少のみぎり、信じて育った懐かしい昔話 ^0^
公園内のつづら道をパワースポットへ吸い込まれるように登って
登り詰めたあまり広くもない境内にポツンとお社。
今日の再興祭のために若い衆が参道から境内まできれいに草刈りをして貰っていました。
私自身、参拝は何十年ぶりのことだろう・・・
神殿はやや傾き、
お社を囲む塀は朽ちて・・・
「帰って参りました、ご無沙汰ですみません」と参拝。
ご神職に教わりました、
出雲神社の参拝は『二拝四拍一拝』なのだそうです。
境内からみた「夫婦岩」。
昔は「肝試し」と称して、覆われたカズラを頼りに大岩に登らされた記憶があります・・・
怖気づくと「おまえ 〇玉有るがか!」と、上級生から叱咤激励?を受けて・・・
今に思うと、あれは半分パワハラだったかも知れません(笑)
その頃は興味も関心も無かったのだが、
今日は大岩・小岩の中央の岩のくぼみに
二体の石像が見えたので傍まで登ってみた。
今日は大岩・小岩の中央の岩のくぼみに
二体の石像が見えたので傍まで登ってみた。
左側の石像に、
定かではないが・・・
指でなぞってみれば「文久壬戊八月吉日」と読める、
「文久」の年代は3年間と短い、
間違いなければ文久壬戊は文久2年(1862年)、
坂本龍馬が土佐を脱藩し、
皇女和宮と14代将軍家茂の婚礼が行われた時代なのだ。
当時の村人が坂本龍馬や皇女和宮のことなど知る由もないコトではあるが、
その年、誰が何のための建立した石像なのか、今は興味津々・・・
余談ながら、私がお接待に通っている遍路茶屋・坂本屋の、
あの豪華な享保雛が納められている木箱に文久3年の墨書きがあることも
ちょっと不思議な縁を感じるふるさと夫婦岩の石像でした・・・
石像から足元の線路、川向こうの県道や駐車場を見ると、ここは結構高い!
はるか昔の卯之町と八幡浜町を結ぶ「旧道」は、ちょうど今の線路辺りだったとか・・・
前述の石像が馬頭観音像とすれば、旧道を往来する牛馬の霊を祀ったものだろうか?
指でなぞってみれば「文久壬戊八月吉日」と読める、
「文久」の年代は3年間と短い、
間違いなければ文久壬戊は文久2年(1862年)、
坂本龍馬が土佐を脱藩し、
皇女和宮と14代将軍家茂の婚礼が行われた時代なのだ。
当時の村人が坂本龍馬や皇女和宮のことなど知る由もないコトではあるが、
その年、誰が何のための建立した石像なのか、今は興味津々・・・
余談ながら、私がお接待に通っている遍路茶屋・坂本屋の、
あの豪華な享保雛が納められている木箱に文久3年の墨書きがあることも
ちょっと不思議な縁を感じるふるさと夫婦岩の石像でした・・・
石像から足元の線路、川向こうの県道や駐車場を見ると、ここは結構高い!
はるか昔の卯之町と八幡浜町を結ぶ「旧道」は、ちょうど今の線路辺りだったとか・・・
前述の石像が馬頭観音像とすれば、旧道を往来する牛馬の霊を祀ったものだろうか?
ウロキョロしていたら神事が始まりました。
祝詞(お迎えして40有余年という祝詞が聞こえました)
玉串奉奠の筆頭は、この復興祭を計画実行した若者代表!
続いて長老、実年皆さんの玉串奉奠。
もし、この中に独身の若者が居りましたら、出雲の神様の御利益を。
夫婦岩出雲神社・再興祈願祭 参会者記念写真
撮影:冬桜祭~夫婦岩再生プロジェクト 写真提供ありがとうございました。
神事のあと、一つ年下のバスケ部員だった市議と相談事あり、公園内の東屋で歓談。
夕方6時からの直会のお誘いも頂いたが
お神酒で飲酒運転は罰当たりもいいとこなので辞退して次のミッションへ。
夫婦岩公園から1,5キロほど山奥へ入った「中津川」へ足を伸ばしました。
神社の手前に
高名な建築家・松村正恒氏の手がけた<中津川公民館>があります。
側道からも入館できる設計になっています。
地元の朋輩が、「是非見て帰れ」と言った公民館前の護岸ブロックの
波模様も松村氏の設計の一部と聞きました。
門外漢で専門的なことは判りませんが、
流れる小川や土手までも建造物の一部として採り入れる松村氏の設計は
重要文化財に指定された市内日土小学校にも共通する「遊び心」かも・・・
その「遊び心」こそ、オトコの活力源だと信じてやまない小僧です。
さて、ここまで来ると、小学生の頃、モミジの季節、
自分の集落から山を越えてチョイチョイ遊びに来たことのある神社が懐かしくて
さらに集落の奥へアクセルを踏みました。
12:10 秋になると紅葉がきれいだった神社は、相当古くなって・・・と想像していたが、
なんと近年改築された様子で、ちょっと拍子抜け・・・だったが、
◇神社由縁の看板
現存する社殿造営の歴史を示す棟札について
応永35年(1428)若山・大元神社より分身
宝徳 3年(1451)~延宝 6年(1678) 4枚
文化 4年(1807)~昭和16年(1941) 8枚
八幡浜市に残る神社の棟札としては最古のもので
「村」の形成を示す貴重なものである。
と、書いてあります。
◇社殿に掲示してある由緒沿革
実は私の姓は「田中」でございまして、
子供ごころにココへ遊びに来ると
「ウチのお宮じゃ~」と自慢した記憶がありますが、
田中山大元神社の田中が読めたセイかもしれませぬ。
一瞬思い出したのは、四国霊場第9番法輪寺さんが、
田んぼの中にあるから田中の法輪寺と呼ばれること。
ガキ大将ながら、この朱塗りの橋を見て「かっこええ!」と思ったことです。
セミ取りにくたびれて、大木の陰で昼寝したのはこの木だったかも知れん・・・
名字は殆ど井上か菊池なのだが、
境内の平成22年改築工事奉賛芳名石碑の中に
同級生の〇クンや〇〇ちゃんの名前を見つけて
携帯してみたが繋がらず・・・
この神社には450年以上続く伝統の「百矢祭」があり、
そのときにでも連絡しておいて会ってみたい・・・
境内の平成22年改築工事奉賛芳名石碑の中に
同級生の〇クンや〇〇ちゃんの名前を見つけて
携帯してみたが繋がらず・・・
この神社には450年以上続く伝統の「百矢祭」があり、
そのときにでも連絡しておいて会ってみたい・・・
3年後、同級生の清ちゃんを誘って行ってきました、伝統の「百矢祭」。
by jh5swz
| 2016-06-28 08:25
| ふる里・双岩村の思い出
|
Comments(2)