カテゴリ:天皇寺と崇徳天皇物語( 1 )

四国霊場と崇徳天皇

      ちょうど今、NHK大河ドラマ「平清盛」で、
      争いに敗れ讃岐へ流された崇徳天皇の悲運の生涯の有様が放映中であるが、
      79番天皇寺に端を発する四国八十八ケ寺霊場と崇徳天皇の関わりを振り返ってみたい。

      物語の結末は84番屋島寺の麓、壇ノ浦の源平合戦まで続くわけだが・・・

      その源平合戦の幕開けとなる保元の乱は、
      鳥羽上皇の第一皇子・崇徳天皇と弟の後白河天皇の骨肉の諍いだった。
 
      皇家肉親同士の皇位継承の勢力争いに、
      武士(平氏と源氏)が巻き込まれた保元の乱(1156)のあと、
      藤原通憲(信西)の論功処遇に不満をもった源義朝は
      3年後(1159)、「平治の乱」を起こしてしまいます・・・

      その後、皇家や公家、平氏、源氏それぞれが複雑に入り乱れた権力闘争?を
      繰り返す歴史の中で、特に崇徳上皇の悲運の物語には、
      四国霊場第79番天皇寺・81番白峰寺が深く関わります。

     (お断り)
      このブログでは天皇と上皇の標記については次のように意識して書き進めます。
        天皇:現在在位している天皇
        上皇:すでに譲位した天皇
        法王:出家した上皇
        院  :院政を敷き実権を握っている法王
      ★大河ドラマ平清盛でも物語の進行によって呼称が変化しているが、
       物語の異常な覇権闘争の中で、天皇なのか上皇なのか微妙なお方もあり、
       小僧には、厳密な使い分けはできませんが・・・・
 
 2011年4月1日の歩き遍路は坂出の八十場(弥蘇場・やそばの泉から始まった。
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       長寛2年(1164)の夏、配流の地、坂出で崩御した崇徳上皇の遺体は、
       傷まないようこの湧き出る泉に繋がる淵に浸され、
       その斂葬にかかる都からの勅使の到着を待った と伝わる。


そんなの関係ない!のだが、
泉の傍には、創業200余年・江戸時代から続く八十場名物ところてんの清水屋があった
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八十場(弥蘇場)の泉からほんの少し歩くと
崇徳天皇ゆかりの「白峰宮」と「第79番天皇寺」が並ぶ。
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白峰宮・天皇寺配置図
f0213825_1002196.jpg    天皇寺へ入る門(切手)
    山門でなし、勅使門でもなし・・・
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 札所へは赤い鳥居からではなく、駐車場P脇のこの門からお納経所前を通り、
 白峯宮参道を横切り、本堂・大師堂を参拝するらしいが、
 坂出駅から歩いて「ところてん」を食べた私達は白峯宮から本堂・大師堂をお参りした、

 「裏口入門」みたいで恥ずかしい・・・ 次回は「正門入山」を実行したい。 

三輪鳥居(子持ち鳥居、三つ鳥居とも)呼ばれる珍しい鳥居の正面は、
1164年秋、78代二条天皇が崇徳上皇を慰めるために造営した白峰宮
f0213825_11444197.jpg      扁額は「崇徳天皇
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           白峰宮拝殿
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           白峰宮参道左手、
           勅令により荼毘にふされるまで崇徳上皇の柩が安置された、と云う天皇寺本堂
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ここまで書いたところで、
登場人物の複雑な人間関係が解らなくなりそうなので、
皇統譜より該当の歴代天皇図を記しておきます。
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  <例によって余談ながら>
   73代堀河・74代鳥羽・75代崇徳の三代に渡って院政を行い、
   時の最高権力者として君臨した白河法皇を演じた
   伊藤四朗さんのおどろおどろしいキャラクターは秀逸!
   
   平清盛は白河法王と白拍子・舞子の御落胤であり? 
   崇徳と77代後白河の養母とされる璋子(たまこ)
   白河法王の養女ではなく実は愛人で崇徳の母?
   さすれば、清盛と崇徳は異母兄弟!
        詳細はNHK大河ドラマ平清盛HPご一読あれ。
   謎めいた権力者白河法皇を見事に演じきっておられた。
   などと、門前の小僧は演劇評論家気取りであります(笑)。


 
 (マジ お断り)
   なお、今までにいっぺんお断りしておきたかったことですが、
   私の投稿は、全編これ素朴な遊び心で書き綴っており、
   人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
   若しくは政治的、経済的又は社会的関係において、
   これを差別・批判・中傷する意図を持つものではありません。
                          2012・07/31 記

 
 流刑の地、坂出の鼓岡で半ば幽閉に近い隠遁生活中、崇徳上皇(以下、崇徳)は、
非を悔い、後世のため3年ががりで五部大乗経を書き写し、奉納を願い京へ送ったが、
藤原通憲(信西)が「これは後白河天皇を呪うものであると、受取りを拒否したため、
崇徳の朝廷への怒りは激しいものとなり、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、
舌を噛み切り流れる血で誓状を書きつけ、爪も髪も切らず日毎凄まじい悪鬼さながらの
形相となり朝廷を恨み続けたといいます。
 この様子は、7/29の大河ドラマ「平清盛」でも、伝説のとおり放映されていました。

 都を偲びながら配流8年、末期は朝廷を恨みながら非業の死を迎えた崇徳の遺体は、
傷まぬよう八十場の冷泉に浸され、斂葬にかかる都からの勅令を待った。
 死後20日、讃岐国司の手により荼毘に付し、白峰山に葬るべしとの宣旨がようやく届き、
遺体は天皇寺を出発し白峰山に向かいます。
 2011年4月1日の歩き遍路で、天皇寺から80番国分寺を経て、五色台の急坂を登り、
白峰山まで約11㌔、今でも道中は難所でした・・・
 当時の道路事情を思えば、斂葬の行列もさぞや大変だったことでしょう・・・

天皇寺から歩くこと約7㌔、第80番国分寺(仁王門)
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余談ながら・・・
この山門はもちろん、
本堂を中心とする広大な伽藍はさすが国分寺の名に恥じない荘厳なものであったが、
中門を構え、わざわざ「礼拝殿」と呼ばせる納経所には落胆した。
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                    「撮影禁止」の貼紙に挑戦した大バカ者が撮影・・・

       中央の飾り窓の奥の大師堂に向かって納経するわけだが、
       遍路の周りはグルリとお守り売場であり、
       家内安全・無病息災・大願成就・交通安全・学業成就・良縁子宝・etc
       よろず願い事承処、
       加えて、白衣、菅笠、お杖に納札、etc etc  お遍路用品が所狭しと並べられ・・・
       円ショップさながらの納経所風情・・・
       遍路は売場のケースや棚の隙間で小さくなって、
       ♪観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時~♪

       何かを手にとって見ようものなら背中に感じる納経所のおばさんの万引き監視目線!
       やっぱり、お寺さんのモノ売場は伽藍とは別棟にこじんまりと有って欲しいものです。

しばし休憩を取り、頭冷やして、
いよいよ白峰寺めざして正面の五色台の山登りが始まります・・・
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        西行法師もこの山を越えて崇徳御陵へ参ったのでしょうか。
                                       
14:10  登り始めは何とかなると思ったが・・・
f0213825_15315838.jpg 登るにつれて、だんだん厳しい坂道になり
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14:55 振り向けば国分寺の町が足元に小さく見えたが、
     絶景を満喫する余裕はなかった・・・
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15:20 やっと、一本松と呼ばれる稜線の県道合流地点到達!
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一本松で暫し休憩後、フェンスを廻らした自衛隊演習場に沿って白峰寺へ
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面白かったのは Keep Out ながら
f0213825_10455654.jpg   遍路だけは、天下御免で演習場内を歩けたこと!
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                 弘法大師や崇徳上皇のご加護で?流れ弾にも当たらず 

出口の鉄条網の端っこに遍路一人が通れる通路が設けてありました
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県道「古田の分岐」から悪路を一気に下り、白峯寺を目指す途中、
f0213825_11233389.jpg  ここからは、聖地であるが故、
  いかなる高貴な者と言えど
  馬や駕籠を降りて自分の足で参れ!と
  下乗石と摩尼輪塔
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  摩尼輪塔は、天応3年(1321)、鎌倉時代の高僧・金剛仏子宗明の建立
  下乗石には、天保7年(1836)高松藩が小屋を建てて「塔」を保護したと彫ってある。
                         (看板絵図より要約転載)   

16:10 天皇寺から11㌔、数回の休憩を挟んで5時間、やっと81番白峯寺へ到着。
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                      -画像は山門前のイラスト看板より-
      崇徳上皇の遺体は、ここ五色台(紅・黄・青・白・黒の五色の峰)の白峰で荼毘にふされ、
      現在も境内の木々に囲まれた静寂の中に廟所・頓証寺殿があり、背後に崇徳御陵がある。
         
      (お断り)
       以下の投稿は、
       2011年4月1日、天皇寺から白峯寺まで歩き、参拝を済ませて自宅へUターン
       2011年5月6日、白峯寺・崇徳御陵参拝して高松市一宮寺まで歩いたときの
       画像をmixして、編集することをお断り致します。


第81番綾松山(りょうしょうざん)白峯寺・七棟門(享保3年(1718)再建)。
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     七つの棟を持つ塀重門で、瓦屋根が段々になった高麗門形式という大変珍しい山門だそうだ。
       正面から見ても棟は五つしかない???、
       一歩入ると中央の棟を支えるように左右に棟があったので、これを入れて七棟門?と、
        2012・08/07 白峯寺さんに電話でお聞きしたら、その通りです。とのご返事だった。

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勅額門白峯寺境内の崇徳上皇御廟所「頓証寺殿」の門
 応永21年(1414)、第100代後小松天皇の宸筆(直筆)により奉納された「頓証寺」の扁額が掲る。
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白峯寺境内にはあるが、背後の白峯御陵と一体になった御陵史跡と受止めるのが正解なのかも知れない・・・  
勅額門の扁額
f0213825_10434018.jpg       扁額の説明板
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崇徳上皇廟所・頓証寺殿
 書誌によると、崇徳上皇の崩御以降、都に変事が相次いだため、
 建久元年(1190)、82代後鳥羽天皇が崇徳の霊を祀る御廟所として建立、
 速やかに迷いを断ち悟りを開く供養を行うところから「頓証寺」と追号された 
                           と記してある。
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ここでは毎年崇徳天皇の命日である9月21日、御正宸祭が催されるが、行事は非公開とか。
f0213825_8212299.jpg 一般にこの種の建物は
 せめて格子戸から中が伺えるものだが、
 御廟の扉は物々しいほどに堅く閉ざされており、
 崇徳上皇が世間との接触を避けているのか?
 いまだに幽閉されているのか?
 などと思わせるちょっと暗い雰囲気だった。
 御廟とか御陵をお参りした経験のない小僧の
 考えすぎかも知れない・・・



頓証寺殿参拝後、脇から杉木立を通り
f0213825_14454494.jpg  シャガの花咲く御陵への坂道を登ると
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老松古杉に囲まれた第75代崇徳天皇白峯陵は、白砂を敷き玉垣を廻らした霊地であった。
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        天皇や皇后などの墓所である御陵は、一般に京都や奈良など当時の都の近くに造られているが、
        都から遠く離れた所にあるのは下関の安徳天皇陵、淡路島の淳仁天皇陵とここ白峯陵だけらしい。


 御陵がこんなに遠隔の地にあるのも崇徳上皇の悲劇を物語るようだが、
 調べてみると、
 「魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、
 朝廷への激しい怒りに燃えた崇徳の怨念を鎮めんと?
   (真意は定かでないが・・・)
 明治天皇は慶応4年(1868)8月18日、自らの即位の礼に際して勅使を讃岐に遣わし、
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建。
  (白峯神宮は、蹴鞠の家元・飛鳥井家邸宅跡であったため、今ではサッカー神社として有名)  
 昭和天皇は昭和39年(1964)、崇徳上皇八百年祭に際し、ここ白峯陵に勅使を遣わし
式年祭を執り行わせている。

 崇徳上皇の怨念に気を遣う?ちょっと意味深な話しではないか。

 大河ドラマ「平清盛」の視聴率が低迷気味と芸能スズメは騒がしいが、
 おどろおどろしい白河天皇の強権院政に端を発し、
 皇位継承の勢力争いに夢中になった公卿が、武士(平氏と源氏)を巻き込んだ歴史に
 悲運の生涯を閉じた崇徳上皇を絡ませた題材は決して悪くない。
 ウチの町の場面がホコリっぽいとか、我が街はもっと明るいとか、
 そんなことは、大河ドラマ便乗期待観光産業振興課に言わせておけばよろしい。
                             2012・08/05 記

81番白峯寺参拝
     白峯・白峰・しらみね・しろみね、と参考書によってまちまちですが、
           直接問い合わせたところ、
      「白峯(しらみね)」が正しいと白峯寺さんのご回答。
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                    (白峯寺HP伽藍図より) 
   この伽藍図をみても御陵は白峯寺の一部であるが、
   崇徳御陵へ参詣するお遍路さんはほとんど無かった・・・
    皆さん、勅額門と水子地蔵から直角に本堂へ急がれる  
   (NHK大河ドラマの影響で少しは多くなったかも知れない)

御陵から勅額門へ引き返し、100段ほどの急な石段を登りつめると
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16:22  朝から11㌔あるいて、やっと白峯寺本堂到着。
           (火野正平さんなら とう~ちゃこ と叫んだかも) 
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ゆかりの古刹らしく、菊の紋章を染め抜いた真っ白い幔幕が印象的だった。
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真っ白い幔幕の紋章を見つめながら思った。
 74代鳥羽天皇(父)に不義の子と疑われ疎んじられ、
 77代後白河天皇(弟)に嫌われ、
 あげく、武士(平家と源氏)を巻き込んだ皇位継承の勢力争いに破れ
 讃岐へ配流された75代崇徳天皇は、半ば幽閉状態の生活中、
 非を悔いて、3年ががりで写経した五部大乗経だけでも京への奉納を願ったが、
 後白河天皇と取り巻き公達に拒絶されブチキレてしまい・・・
 「魔王となり天下に騒乱を起こさん」などとわめいてしまい、
 反逆者のレッテルを貼られた。
 果たして崇徳天皇の真意であったのだろうか???
 せめてあの五部大乗経さえ京への奉納が認められれば、
 悲劇は起こらなかったのでは?・・・
 ちょとした誤解や邪推で歴史が変わるものなら、こんな恐ろしいことはない。
 などと・・・。
 
(蛇足)
 白峯寺から下山しながら、
 学生の頃、余り好きではなかった古文の授業で習った百人一首を思い出した。
  瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
           われても末に 逢はむとぞ思ふ   -崇徳-

 教師が云った。
  「これは恋の歌だ、粋な天皇さんやろ~!
     おまえらも、こんな粋なラブレターを書け、キットうまくいく」  と。
 恋文を送ったアイツには振られたが、
 退屈な古文の授業を退屈させないで、私を古文好きにしたあの教師は粋な先生だった。

 百人一首と同時に、
 今は聴くことの少なくなった、落語の大ネタ「崇徳院」のサゲを思い出し、
 夕焼けに染まる瀬戸大橋を眺めながら、一人で笑いをかみ殺した。
 恋歌と落語がチャンポンになるのだから、門前の小僧もお歳でござる。
                         
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 長い、長すぎた
 「四国霊場と崇徳天皇物語」に
 お付き合いありがとうございました。

 お立ち寄りの皆さま、
 今しばらく暑い日が続きそうです、
 お体ご自愛下さい。
           2012・08/07 



このページの編集にあたり参考にさせていただいたサイト
   四国霊場八十八ケ所公式HP
     http://www.88shikokuhenro.jp/kagawa.html
   第81番白峯寺公式Hp
     http://www.shiromineji.com/shiro-top.html
   NHK大河ドラマ平清盛・登場人物相関図
     http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/index.html
   日本史:保元・平治の乱
     http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp20.html

        ありがとうございました。
  
by jh5swz | 2012-08-07 19:01 | 天皇寺と崇徳天皇物語 | Comments(2)