第46番から第51番まで松山市内六ヶ寺巡拝
2010年 07月 01日
歩いた日>2010年2月5日 晴れ
コース>第45回 第46番浄瑠璃寺~第51番石手寺まで
14,1Kキロ(第1番霊山寺から延べ776,9K)
・・・巡拝するお寺が多いので歩行距離は伸びません・・・
疲労度>☆☆☆☆☆
07:50 乙井橋バス停で送迎バス乗車。
08:30 前回ゴール地、浄瑠璃寺本堂脇で準備運動
08:40 八坂寺まで1㌔ いざ、出発!
08:48 わずか1㌔歩けば、47番八坂寺参道へ
八坂寺伽藍図
寺名ロゴ及び伽藍配置図は、
「NPO伊予路おへんろ倶楽部」発行の冊子より
08:50 八坂寺極楽橋、正面に本堂
第47番 熊野山 八坂寺(くまのざん やさかじ)本堂
寺号は、創建にあたって八つの坂道を切り開いて道を造ったことに因むと聞き及びます。
大師堂お納経
念ずれば花開く-坂村真民句碑-
八坂寺本尊:阿弥陀如来
09:30 八坂寺近くの別格9番 文殊院得盛寺(もんじゅいんとくせいじ)
遍路の開祖といわれる衛門三郎(えもんさぶろう)の屋敷跡だと伝えられる
近くの田んぼの中には衛門三郎の八人の子供の墓といわれる八塚がある
11:40 西林寺から20分、小野川にかかる遍路橋
その遍路橋を渡って約150mで我が家、
女房と前の散髪屋の奥さんが熱い茶をお接待してくれた。
12:07 西林寺から3K、
伊予鉄郊外線の踏み切りを渡った駐車場で一旦打ち止め、
踏切の向こう200mが49番浄土寺なのだが・・・
46番浄瑠璃寺前の遍路宿までバスで引き返し昼食・休憩。
わざわざ引き返すほどのメニューではなかった・・・
13:30 昼食後、バスに乗った場所まで引き返して遍路再開
浄土寺伽藍配置図
13:33 第49番 西林山 浄土寺本堂
青い奉納幕が鮮やかでした。
盗難防止策でしょうか?
お賽銭箱が正面扉の中にあり、格子の穴から納めなければならない・・・
遍路の喜捨浄財なのだから、いわんや悪人?にも恵んであげたら?
と、門前の小僧のつぶやき。
納経所は右手の奥にありました
浄土寺本尊:釈迦如来
浄土寺ゆかりの空也上人像
この画像は後年、上人像ご開帳のときもらった冊子から借用中 切手
踊念仏の開祖、空也上人がこの寺に3年ほど滞在(957~960)、
この地を去るとき、里人の願いで刻んだ自像は寺に現存する(重文)。
14:00 浄土寺~日尾八幡神社~繁多寺への移動中、
東道後温泉「そらともり」の壁ガラスに映ったチームの皆さんです。
繁多寺伽藍配置図
14:30 50番繁多寺山門到着
隠遁した剣豪でも住んで居そうな閑静な門構えが大好きです。
第50番 東山 繁多寺(ひがしやま はんたじ)本堂
一遍上人ゆかりの寺で、地元では「はたでら」と呼ばれ親しまれています。
鐘楼堂から大師堂をパチリ 切手に描かれた「世界万灯会」は、
この寺で、毎年大晦日に
世界平和を祈願し盛大に行われる行事です。
16:25 石手寺駐車場からバス乗車。
17:10 松山IC、下車。
次回は、松山市郊外2ヶ寺を参拝して北条まで歩く計画です。
↓クリック
☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆
さて、文殊院得盛寺で書きかけた衛門三郎伝説の結末・・・
寛永4年(892)道後湯築(ゆづき)城主河野息利(やすとし)に男児が生まれたが、
生後3年経っても左手が開かないので安養寺住職に祈祷してもらうと手が開き、
中から「衛門三郎再来」と書いた小石が出てきた。
その子こそ、天長8年(831)に焼山寺山中で息絶えた衛門三郎の生れ変りで、
これに因み、寛平4年(892)、安養寺は石手寺と寺号を改めた。
その石は「玉の石」と呼ばれ寺宝として寺に伝わっている。
~~~ ~~~ ~~~ ~~~
伝説の人物が実在城主の子として”小石を握って”生まれ変わった という結末。
「ウソだ~?」と詮索するより、「へ~~」と驚いておく方が平和でよろしい!?
何でもありで懐の深~い四国霊場巡りの旅なのですから~
コース>第45回 第46番浄瑠璃寺~第51番石手寺まで
14,1Kキロ(第1番霊山寺から延べ776,9K)
・・・巡拝するお寺が多いので歩行距離は伸びません・・・
疲労度>☆☆☆☆☆
07:50 乙井橋バス停で送迎バス乗車。
08:30 前回ゴール地、浄瑠璃寺本堂脇で準備運動
08:40 八坂寺まで1㌔ いざ、出発!
08:45 知る人ぞ知る 八坂城?(高さ65センチ)
八坂寺伽藍図
「NPO伊予路おへんろ倶楽部」発行の冊子より
08:50 八坂寺極楽橋、正面に本堂
第47番 熊野山 八坂寺(くまのざん やさかじ)本堂
寺号は、創建にあたって八つの坂道を切り開いて道を造ったことに因むと聞き及びます。
09:30 八坂寺近くの別格9番 文殊院得盛寺(もんじゅいんとくせいじ)
遍路の開祖といわれる衛門三郎(えもんさぶろう)の屋敷跡だと伝えられる
近くの田んぼの中には衛門三郎の八人の子供の墓といわれる八塚がある
強欲非情な豪族?衛門三郎は、
托鉢に訪れた弘法大師に乱暴な態度をふるまい、
8人の子供たちを失って改心した三郎は
天罰の許しを乞うべく弘法大師を追って
21回も四国巡礼を重ね、
第12番焼山寺近くでようやく大師に会えて
許しを叶えて息絶えたという伝説上の人物。
伝説とはいえ、子供八人が亡くなってしまうとは・・・?
弘法大師の怨念でもあるまいに・・・
なお、この伝説物語は第51番石手寺まで続く・・・
文殊院から少し歩いたところにある、八人の子供の墓と伝わる八塚の一部(後方三つの小さな塚)
杖杉庵の像を見て、衛門三郎の屋敷跡を参拝し、八塚の傍を歩くと、
この物語は”伝説なのか史実なのか?” まか不思議な気持ち・・・
10:20 その衛門三郎が弘法大師を訪ねる巡礼を始めたお堂?
衛門三郎が、自分が大師を探し追ってお参りしたことが分かるようにと、
お堂に「さば札」という札を貼り始めた大師堂で、
その「さば札」が現在の「納め札」の始まりだそうだ。
昔の納め札
現在の納め札(資料)
巡礼回数で決められており
1~4回は白
7回までは緑
24回までは赤
これ以上は銀・金
100回以上は錦
現代では、お接待のお礼や遍路同士が名刺代わりに納め札を交換することもあります。
10:35 重信川を渡り
10:50 48番西林寺奥の院「杖の淵」のお大師像前にて久しぶりの4期遍路揃い踏み。
全国名水百選、弘法大師ゆかりの杖ノ淵(じょうのふち)の湧水。
巡錫中の弘法大師がこの地を通りがかった際に、住民が干魃に苦しんでいた。
これを見た大師がここに杖を突き立てると清水が湧き出たという。
以後、清水は尽きることなく湧き出て淵となった。
この伝説から「杖ノ淵」と名付けられ現在、公園になっています。
西林寺伽藍配置図
11:00 第48番西林寺仁王門
仁王門は門前の小川の土手より低い所にあり、
罪ある者が奈落へ落ちてゆく無間地獄にたとえたり、この寺を伊予の関所寺と言ったりする。
弘法大師のお出迎えを受けて
第48番 清滝山 西林寺 本堂(右、大師堂)
境内、福授地蔵前の紅梅
西林寺本尊:十一面観世音菩薩
托鉢に訪れた弘法大師に乱暴な態度をふるまい、
8人の子供たちを失って改心した三郎は
天罰の許しを乞うべく弘法大師を追って
21回も四国巡礼を重ね、
第12番焼山寺近くでようやく大師に会えて
許しを叶えて息絶えたという伝説上の人物。
伝説とはいえ、子供八人が亡くなってしまうとは・・・?
弘法大師の怨念でもあるまいに・・・
なお、この伝説物語は第51番石手寺まで続く・・・
文殊院から少し歩いたところにある、八人の子供の墓と伝わる八塚の一部(後方三つの小さな塚)
杖杉庵の像を見て、衛門三郎の屋敷跡を参拝し、八塚の傍を歩くと、
この物語は”伝説なのか史実なのか?” まか不思議な気持ち・・・
10:20 その衛門三郎が弘法大師を訪ねる巡礼を始めたお堂?
衛門三郎が、自分が大師を探し追ってお参りしたことが分かるようにと、
お堂に「さば札」という札を貼り始めた大師堂で、
その「さば札」が現在の「納め札」の始まりだそうだ。
昔の納め札
現在の納め札(資料)
巡礼回数で決められており
1~4回は白
7回までは緑
24回までは赤
これ以上は銀・金
100回以上は錦
現代では、お接待のお礼や遍路同士が名刺代わりに納め札を交換することもあります。
10:35 重信川を渡り
10:50 48番西林寺奥の院「杖の淵」のお大師像前にて久しぶりの4期遍路揃い踏み。
全国名水百選、弘法大師ゆかりの杖ノ淵(じょうのふち)の湧水。
巡錫中の弘法大師がこの地を通りがかった際に、住民が干魃に苦しんでいた。
これを見た大師がここに杖を突き立てると清水が湧き出たという。
以後、清水は尽きることなく湧き出て淵となった。
この伝説から「杖ノ淵」と名付けられ現在、公園になっています。
西林寺伽藍配置図
11:00 第48番西林寺仁王門
仁王門は門前の小川の土手より低い所にあり、
罪ある者が奈落へ落ちてゆく無間地獄にたとえたり、この寺を伊予の関所寺と言ったりする。
弘法大師のお出迎えを受けて
第48番 清滝山 西林寺 本堂(右、大師堂)
境内、福授地蔵前の紅梅
西林寺本尊:十一面観世音菩薩
11:40 西林寺から20分、小野川にかかる遍路橋
その遍路橋を渡って約150mで我が家、
女房と前の散髪屋の奥さんが熱い茶をお接待してくれた。
自宅前を歩き遍路中の亭主が歩く、女房が接待をする、
という話しもそうザラには無かろう?
という話しもそうザラには無かろう?
ちょとテレました門前の小僧 ^0^
”お接待誠にありがとうございました” です。
⇔橋柱は卒塔婆の形をして「遍路橋」と彫ってある。
”お接待誠にありがとうございました” です。
⇔橋柱は卒塔婆の形をして「遍路橋」と彫ってある。
近所のお年寄りは遍路を見かけると「お道 よろしゅう~」と声をかけて見送ります。
12:07 西林寺から3K、
伊予鉄郊外線の踏み切りを渡った駐車場で一旦打ち止め、
46番浄瑠璃寺前の遍路宿までバスで引き返し昼食・休憩。
わざわざ引き返すほどのメニューではなかった・・・
13:30 昼食後、バスに乗った場所まで引き返して遍路再開
この信号がまったく歩行者無視でなかなか渡れない・・・
浄土寺伽藍配置図
13:33 第49番 西林山 浄土寺本堂
青い奉納幕が鮮やかでした。
お賽銭箱が正面扉の中にあり、格子の穴から納めなければならない・・・
遍路の喜捨浄財なのだから、いわんや悪人?にも恵んであげたら?
と、門前の小僧のつぶやき。
納経所は右手の奥にありました
浄土寺本尊:釈迦如来
浄土寺ゆかりの空也上人像
この画像は後年、上人像ご開帳のときもらった冊子から借用中 切手
この地を去るとき、里人の願いで刻んだ自像は寺に現存する(重文)。
14:00 浄土寺~日尾八幡神社~繁多寺への移動中、
東道後温泉「そらともり」の壁ガラスに映ったチームの皆さんです。
繁多寺伽藍配置図
14:30 50番繁多寺山門到着
隠遁した剣豪でも住んで居そうな閑静な門構えが大好きです。
第50番 東山 繁多寺(ひがしやま はんたじ)本堂
一遍上人ゆかりの寺で、地元では「はたでら」と呼ばれ親しまれています。
鐘楼堂から大師堂をパチリ
繁多寺本尊:薬師如来
15:45 東野住宅地の中のへんろ道を3Kほど歩くと石手寺
石手時伽藍図
中世建立と聞く、堂々とした伽藍が並びます
左右に参拝記念品などを売る店が並ぶ石手寺の屋根付き参道
国宝51番石手寺仁王門(文保2年・1318建造)
重文・第51番 熊野山 石手寺(くまのざん いしてじ) 本堂
道後温泉の近くにあり、四国霊場の中でも随一の国宝・重文を有する名刹。
寺号「石手寺」は手に小石を握って生まれたという衛門三郎伝説の結末に因むとのこと。
16:00 大師堂内陣にてお納経
石手寺本尊:薬師如来
重文・三重塔
石手時伽藍図
左右に参拝記念品などを売る店が並ぶ石手寺の屋根付き参道
国宝51番石手寺仁王門(文保2年・1318建造)
重文・第51番 熊野山 石手寺(くまのざん いしてじ) 本堂
道後温泉の近くにあり、四国霊場の中でも随一の国宝・重文を有する名刹。
寺号「石手寺」は手に小石を握って生まれたという衛門三郎伝説の結末に因むとのこと。
三重塔の切手
この寺で、毎年大晦日に
世界平和を祈願し盛大に行われる行事です。
16:25 石手寺駐車場からバス乗車。
17:10 松山IC、下車。
次回は、松山市郊外2ヶ寺を参拝して北条まで歩く計画です。
↓クリック
さて、文殊院得盛寺で書きかけた衛門三郎伝説の結末・・・
寛永4年(892)道後湯築(ゆづき)城主河野息利(やすとし)に男児が生まれたが、
生後3年経っても左手が開かないので安養寺住職に祈祷してもらうと手が開き、
中から「衛門三郎再来」と書いた小石が出てきた。
その子こそ、天長8年(831)に焼山寺山中で息絶えた衛門三郎の生れ変りで、
これに因み、寛平4年(892)、安養寺は石手寺と寺号を改めた。
その石は「玉の石」と呼ばれ寺宝として寺に伝わっている。
~~~ ~~~ ~~~ ~~~
伝説の人物が実在城主の子として”小石を握って”生まれ変わった という結末。
「ウソだ~?」と詮索するより、「へ~~」と驚いておく方が平和でよろしい!?
何でもありで懐の深~い四国霊場巡りの旅なのですから~
by jh5swz
| 2010-07-01 16:13
| 46番から51番石手寺まで松山6ヶ寺参り
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