双岩村 中津川の「百矢祭」2019
2019年 04月 17日
(日)の日記。
(旧)西宇和郡双岩村の、
私が生まれた若山という集落の峠を一つ隔てて「中津川」という静かな山里があります。
その中津川の大元神社で愛媛県南予地方で唯一残る弓神事「百矢祭」が行われると聞き、
村に住む同級生を誘って行ってきました。
戦国時代(1560年頃)武芸奨励のため始まったとされる「百矢祭」は、
今では厄落としの神事として、ここ(旧)双岩村 中津川で脈々と継承されています。
私、この村に生まれながら、この歳になって初めて観る「百矢祭」です。
当時はなにしろ「遊び」がありませんから
道中は、宝刀「肥後の守」で木刀作って
チャンバラごっこ、
夕暮れになると、峠をトボトボ歩いて
帰宅したら「遅い!」と叱られたものです。
今では「もみじ祭り」が行われるほどの紅葉の名所らしい。
さぞ、にぎやなんでしょうね~
百矢祭式場には雨に備えてシートが張られて、立派な手作り看板も取り付けてありました。
神殿では神事が執り行われています、
主役登場です!
境内には中津川内外からのギャラリーでだんだん賑わってきました。
当然、厄男三人の弓を引く手にも気合が入ります。
婆ちゃんや母ちゃんに連れられて来た、
この祭りの次の世代の後継者から「がんばれ、がんばれ~」の声援が飛びます。
開始後、約20分、厄男から最初の的中者が出ると式場は割れんばかりの拍手喝采!
的中者の写真を撮らせてもらったのですが、ブログへの掲載許可を得てないのでカット。
「的」の前後左右に外れた矢が溜まったり的中矢が出ると、
神社総代さん?のかけ声で小休止、
末尾に追記した「双岩村史」によるとこの大役を「矢取り」と呼ぶらしい。
私には、子供達が懸命に矢を拾い集める姿こそが、この祭りの一番素晴らしい場面に見えました。
山里の老若男女、子供達が一体となって伝統の祭事を守る百矢祭に感動と元気をもらったことです。
このアマチュアカメラマン諸氏も「百矢祭」の盛り上げ役に違いない(私を含めて^0^)
アマチュアはちゃんと「結界」を守ります。
開始から約50分?
歳男皆さんの厄除け謝的が終わって、里の長老とゲスト有志の登場です。
※ゲストの市長が宣言通り見事一発で命中させたのには会場やんやの大喝采、
式場を結界の後方から見ると的はそう遠くはないように見えるのですが・・・
弓を引いたことのない者にとっては至難の業でしょう。
どうしても命中しないゲストさんは矢来を越えて・・・
右奥の背広に革靴のご来賓は殆ど的の手前まで近づいてもダメ、
「子供らが餅撒きを待ちよるけん、あと3分で射ち止め」と
法被姿の総代さんの声が無かったら日が暮れたかも知れません(笑)。
お約束どおり3分後、
日本の祭りごとに欠かせない?「大人へ紅白餅と子供達にお菓子撒き」。
たくさんの紅白餅が天からバラバラ降って、伝統の「中津川・百矢祭」はめでたく大団円。
中津川と田中山大元神社、そして百矢祭の弥栄をお祈りします。
(4/22 追記:参考資料)
かれこれ450年前後伝承されたと伝わるこの中津川の百矢祭について、
なにか文献(記録)がないものだろうかと、資料を捜してみました。
ひょいとひらめいて、
私がインターネットから「お気に入り保存」して、ときどき読んでいる
「双岩村詩」を思い出して、読み漁っておりましたら、第9章・第4節に
次のような記述が見つかりましたので引用掲載致します。
お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、
それに對して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤める者袴を着けて
着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、
矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾う、弓手にして数回的を射抜く能はざる時は
観客の懸けたる纏頭は之を矢取りに流す作法あり、
「双岩村詩」大正八年(1919)出版
出版者:双岩村 著者(編):曽我 鍛(ソガキトウ)
第9章 民俗
第4節 娯楽 163ページ記述より
参照:国立国会図書館オンライン・リンク
公開範囲:インターネット公開(保護期間満了)
保護期間満了とは
2019年4月14日(旧)西宇和郡双岩村の、
私が生まれた若山という集落の峠を一つ隔てて「中津川」という静かな山里があります。
その中津川の大元神社で愛媛県南予地方で唯一残る弓神事「百矢祭」が行われると聞き、
村に住む同級生を誘って行ってきました。
戦国時代(1560年頃)武芸奨励のため始まったとされる「百矢祭」は、
今では厄落としの神事として、ここ(旧)双岩村 中津川で脈々と継承されています。
私、この村に生まれながら、この歳になって初めて観る「百矢祭」です。
このお宮は、小学生の頃、近所の子分達と、
実家のあった若山から峠を越えて二度ほど
遊びに来たことがあります。
この朱塗の橋をみて、子供ながら
「派手なの~」と思ったものです。
実家のあった若山から峠を越えて二度ほど
遊びに来たことがあります。
この朱塗の橋をみて、子供ながら
「派手なの~」と思ったものです。
当時はなにしろ「遊び」がありませんから
道中は、宝刀「肥後の守」で木刀作って
チャンバラごっこ、
夕暮れになると、峠をトボトボ歩いて
帰宅したら「遅い!」と叱られたものです。
今では「もみじ祭り」が行われるほどの紅葉の名所らしい。
さぞ、にぎやなんでしょうね~
百矢祭式場には雨に備えてシートが張られて、立派な手作り看板も取り付けてありました。
神殿では神事が執り行われています、
42歳と61歳の本厄を迎えた男性三人が主役だとか、
神事のあと神主さんが厄除け一番矢を放ちました、
(その前に)若いご神職が的を祓い清めます。
この二枚の写真は式典と順序が違いますが、式場の模様優先で、あしからず・・・
主役登場です!
矢来からの距離は約10メートルちょっと?
先の的には直径15㌢ほどの素焼きの小皿。
当たれば小皿は割れて飛び散るハズですが
これがなかなか当たらない・・・
先の的には直径15㌢ほどの素焼きの小皿。
当たれば小皿は割れて飛び散るハズですが
これがなかなか当たらない・・・
境内には中津川内外からのギャラリーでだんだん賑わってきました。
当然、厄男三人の弓を引く手にも気合が入ります。
よく見ると、弓も矢もしっかりした作りなのです。
婆ちゃんや母ちゃんに連れられて来た、
この祭りの次の世代の後継者から「がんばれ、がんばれ~」の声援が飛びます。
大勢のチビッコ達が集まるこの祭りの将来は継承安泰まちがいなし!
開始後、約20分、厄男から最初の的中者が出ると式場は割れんばかりの拍手喝采!
的中者の写真を撮らせてもらったのですが、ブログへの掲載許可を得てないのでカット。
「的」の前後左右に外れた矢が溜まったり的中矢が出ると、
神社総代さん?のかけ声で小休止、
チビッコ達には矢を拾い集めて矢立てへ戻すという
名誉ある大役が待っているのです。
名誉ある大役が待っているのです。
末尾に追記した「双岩村史」によるとこの大役を「矢取り」と呼ぶらしい。
私には、子供達が懸命に矢を拾い集める姿こそが、この祭りの一番素晴らしい場面に見えました。
山里の老若男女、子供達が一体となって伝統の祭事を守る百矢祭に感動と元気をもらったことです。
このアマチュアカメラマン諸氏も「百矢祭」の盛り上げ役に違いない(私を含めて^0^)
アマチュアはちゃんと「結界」を守ります。
開始から約50分?
歳男皆さんの厄除け謝的が終わって、里の長老とゲスト有志の登場です。
※ゲストの市長が宣言通り見事一発で命中させたのには会場やんやの大喝采、
あっと言う間の出来事で写真は甘ピン、許可も得てないので掲載は控えます。
式場を結界の後方から見ると的はそう遠くはないように見えるのですが・・・
弓を引いたことのない者にとっては至難の業でしょう。
どうしても命中しないゲストさんは矢来を越えて・・・
右奥の背広に革靴のご来賓は殆ど的の手前まで近づいてもダメ、
やむを得ず的のお皿(土器)も大きくしたが・・・
それでも当たらないのもこの祭りのご愛嬌?
それでも当たらないのもこの祭りのご愛嬌?
「子供らが餅撒きを待ちよるけん、あと3分で射ち止め」と
法被姿の総代さんの声が無かったら日が暮れたかも知れません(笑)。
お約束どおり3分後、
日本の祭りごとに欠かせない?「大人へ紅白餅と子供達にお菓子撒き」。
たくさんの紅白餅が天からバラバラ降って、伝統の「中津川・百矢祭」はめでたく大団円。
私にも縁起餅が飛んできて祭りはハッピーエンド(笑)
中津川と田中山大元神社、そして百矢祭の弥栄をお祈りします。
(4/22 追記:参考資料)
かれこれ450年前後伝承されたと伝わるこの中津川の百矢祭について、
なにか文献(記録)がないものだろうかと、資料を捜してみました。
ひょいとひらめいて、
私がインターネットから「お気に入り保存」して、ときどき読んでいる
「双岩村詩」を思い出して、読み漁っておりましたら、第9章・第4節に
次のような記述が見つかりましたので引用掲載致します。
お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、
それに對して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤める者袴を着けて
着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、
矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾う、弓手にして数回的を射抜く能はざる時は
観客の懸けたる纏頭は之を矢取りに流す作法あり、
「双岩村詩」大正八年(1919)出版
出版者:双岩村 著者(編):曽我 鍛(ソガキトウ)
第9章 民俗
第4節 娯楽 163ページ記述より
参照:国立国会図書館オンライン・リンク
公開範囲:インターネット公開(保護期間満了)
保護期間満了とは
著作権の保護期間が満了していることが確認できた資料に表示します。
◇著者(編):曽我 鍛(ソガキトウ)氏については、
サイト<愛媛文化界の先哲>を是非ご一読願いたい。
村史が出版されてちょうど100年目に、膨大な村史の中の僅か五行の記述に
触れることができたのも、なにかの巡りあわせかもしれないと感無量・・・
(蛇足ながら・・・)
「おほまい」弓技場では数人が一組となり入場し、一番最初に射る人を「大前(おおまえ)と呼び、
入退場から行射まで全ての動作の先頭を大前が務めるそうですが、関係があるのでしょうか?
「纏頭(てんとう)」歌舞・演芸・武芸などを演じた者に与えられる祝儀、褒美、懸賞の類いのこと。
本文の場合は弓手が数回射っても当たらないとき、観客が懸けた祝儀は矢取りの少年に下される、
と、云う意味でしょう。
「纏頭」は、昔、褒美にもらった衣を頭に纏って舞い踊ったことが語源らしい。
大相撲の結びの一番後の「弓取り式」も典型的な「纏頭」の礼舞いに違いない。
◇著者(編):曽我 鍛(ソガキトウ)氏については、
サイト<愛媛文化界の先哲>を是非ご一読願いたい。
村史が出版されてちょうど100年目に、膨大な村史の中の僅か五行の記述に
触れることができたのも、なにかの巡りあわせかもしれないと感無量・・・
(蛇足ながら・・・)
「おほまい」弓技場では数人が一組となり入場し、一番最初に射る人を「大前(おおまえ)と呼び、
入退場から行射まで全ての動作の先頭を大前が務めるそうですが、関係があるのでしょうか?
「纏頭(てんとう)」歌舞・演芸・武芸などを演じた者に与えられる祝儀、褒美、懸賞の類いのこと。
本文の場合は弓手が数回射っても当たらないとき、観客が懸けた祝儀は矢取りの少年に下される、
と、云う意味でしょう。
「纏頭」は、昔、褒美にもらった衣を頭に纏って舞い踊ったことが語源らしい。
大相撲の結びの一番後の「弓取り式」も典型的な「纏頭」の礼舞いに違いない。
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桃ぶどう
at 2019-04-19 10:35
x
おはようございます。窓を開けていPCするようになりました。新緑の季節に入りますね。
弓矢ですか~日本人だから出来そう・・・に見えますが、難しいですよねぇ。
息子が弓道をしていましたが、懐中(全弓を的に当てる事)なんてとんでもなく難しいとか。
構えから始まり、肩と腕がしっかりしていないと姿勢も崩れるので、狙いもズレる"(-""-)"見てると出来そうなんですがねぇ~
弓矢ですか~日本人だから出来そう・・・に見えますが、難しいですよねぇ。
息子が弓道をしていましたが、懐中(全弓を的に当てる事)なんてとんでもなく難しいとか。
構えから始まり、肩と腕がしっかりしていないと姿勢も崩れるので、狙いもズレる"(-""-)"見てると出来そうなんですがねぇ~
0
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jh5swz at 2019-04-19 16:22
桃さん、こんにちわ。
そうでしょうとも、42歳&61歳の男盛りが狙っても狙っても的の下に「矢」の山・・・でしたから、
一発で的中のゲスト市長は「弓道部」だったのかもしれません(笑)
そうでしたか、息子さんが! ウチの”長女の娘”も高校でやってたみたいです、少なくとも背筋伸ばして
姿勢がよくなりそうですから「やれ がんばれ!」とけしかけたことでした。
四国もお遍路シーズン真っ只中です、所長さんも「真っ縦の坂」を登られたようですよ。
そうでしょうとも、42歳&61歳の男盛りが狙っても狙っても的の下に「矢」の山・・・でしたから、
一発で的中のゲスト市長は「弓道部」だったのかもしれません(笑)
そうでしたか、息子さんが! ウチの”長女の娘”も高校でやってたみたいです、少なくとも背筋伸ばして
姿勢がよくなりそうですから「やれ がんばれ!」とけしかけたことでした。
四国もお遍路シーズン真っ只中です、所長さんも「真っ縦の坂」を登られたようですよ。
by jh5swz
| 2019-04-17 12:15
| ふる里・双岩村の思い出
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